勝田 無一 インタビュー

トップガーデナーが造園する一体設計の「庭」づくり

有限会社 創設計 代表 勝田 無一

経歴は?


オイルショックの頃ですよね。高度成長期でしたのに、急にそうなってしまったものですから、就職先がなかったんです。大学の先生のところにアルバイトしてたので、「先生、ここにおいてよ」ってことで、就職させてもらい足掛け10年くらいいましたかね。そうすると、だんだん下もつかえてくるので、「じゃあ、そろそろ独り立ちするか」ってことで独立しました。以来、建築はもちろん造園関係も含め、中と外の空間の住環境一体の設計を目指してやってきました。



勤務時代の最初の設計は?

住宅の教科書に載ってますが、「ノ苑(デンエン)という屋号の本格的な木造建築です。いまどき、こういう木造のディティールなんかやる人いないですよね。
当時は、新和風の住宅をやることが多かったですね。あと、そこそこの大きさの診療所も設計しましたね。






僕たちは、本格的な木造の設計を叩き込まれた最後の世代ですよね。僕らより下の世代は、ちゃんとした木造の作り方を教えられてませんから。木造の細かいところなんて、大工まかせ工務店任せですからね。
自分たちで原寸図を現場に持って行って、大工に「ばかやろー!こんなもんできるか!」って、金槌持って追っかけられて、「しょうがねぇ、こうやってこうやりゃぁできるんだぞ」ってな感じで怒られながら教わったんですね。
そういう時代を過ごしてきたんですね。






現代は、住宅部品は現場で組み立てるだけになってます。受ける施工者もそうですが、それを分かる依頼主もなかなかいませんよね。
戦後は、そういった技術を保存できるのかな、と思っていましたら、衰退の坂を転げ落ちるようにして無くなってしまいました。それに取って代わってしまったのが、経験の浅い大工でも建築できるツーバイフォーなんかですね。工務店もその流れに傾倒せざるを得ず、もう現場で木を刻める職人もいなくなってしまいました。
昭和25年に軸組工法を壁構造に置き替わる建築基準法が制定されたのがきっかけで、日本の木造技術を衰退させてしまったという一面があると思います。





独立後の仕事は?


その頃は少し不景気な時で、仕事が無かったですね。それで家具作ったり、営業したり、建築パースを手書きしていましたね。
そうしていると少しずつ住宅の依頼が増えていき、仕事が進んでいきました。
あとそういえば、独立する前の3年間ほど、分譲マンションを専門に作っている会社で働きました。当時はマンションブームもありましたけど、これから独立するにあたって、集合住宅もしっかり分かっていないとダメだなと思いました。
そこに入るといきなり主任にさせられましたが(笑)。それまでは大先生の時代ですから、大先生のOKが出ないと、絶対に図面を表に出せない訳ですよ。現場では、「こっちで勝手に作っちまうぞ!」とせっつかれ、大先生は忙しくて時間が全然取れない。勝手に出したりすると、「こんなの俺の設計ではない!壊せ!」とくる訳ですよ。「壊せ!」ですからね!参りますよ。
それが打って変わって、マンション会社ではそれなりに仕事はできますから、自分でやって「どなたがチェックするんですか?」と聞いたら、「そんなのは君がよければ良いんだ」ときて、いきなりマンション5〜6本持たされました。大先生の仕事ではトイレも1坪以下の部屋なんてなかったのですが、今度は「君!Pタイル1枚のスペースいくらだと思っているんだ!便器が納まればいいんだ!」って怒られました。そういうギャップはありましたね。それで3年居たんで、一応マンションは分かったということで独立したんですよね。





そこから仕事はなかったですが、マンション時代の下請けの仕事をしていましたね。その他、パースの絵を描いたりね。あるとき大宮の大地主へマンションの企画を提案する機会がありました。それをきっかけに本格的に仕事が進んでいきましたね。大地主さんには気に入って頂けて、マンションを5〜6本設計させて頂きました。土地活用した賃貸マンションですが、メンテナンスコストやランニングコストをできるだけ掛からないように計画しないといけないことを学びましたね。
そこからバブル到来です。当時あった事業計算ソフトを活用して、皆さんマンションを自己資金なしで建てるんですが、そういった方に随分営業しましたね。その後バブルが弾けて住宅メインになりましたね。





ガーデニングはいつから?


もともと興味はありました。大先生の頃は一流の庭師がいましたので、興味深く見ていました。実際、庭造りに携わっていますと、やはり全体を一緒に考えて造らないとダメだなって。それから少しずつ、家の中に庭を造ったりしていました。
そうこうしてますと、バブル後、ガーデニングブームが来たんですよ。それまで、いわゆるインナーテラスやインナーガーデンを造っている人があんまりいなくてね。「お前は、家の中に庭作ってるのか?もう一部屋作れば良いじゃん?」と、仲間からばかにされたりしてました。
でもガーデニングブームが到来してから、ちょこちょこと雑誌に掲載されたりすると、それを見たマスコミ関係の方が、「面白いことやっていますね!」ということで、家庭画報に掲載されたり、TVの庭のコメンテーターなんかやったりして、仕事が増えていきましたね。





家庭画報の特集なんかでは「日本のトップガーデナー」なんてタイトルが付いたりしました。それなら「ガーデナー建築家」で推していこうって考えました。
それで依頼がくるときは、可能な限り庭も一緒にやらせて下さいとお願いする訳ですよ。とは言いつつも、なかなか予算が出ない場合も多い。最後の段階になって庭の予算を見せると「いやー、家具も買うし、追加工事の費用もあるし、庭はまた今度でいいかな」となる訳です。こっちとしては庭込みで設計しているので、竣工写真も撮れない。じゃあしょうがない、実費だけのボランティアで作りますって言って作ってましたね。





当時はハウスメーカーも、外構を綺麗にする技術がなくて、講師にきてくれなんて頼まれもしましたね。結果ほとんどマネされましたね(笑)。


今はなかなか予算も厳しい方が多いです。予算を土地に掛け過ぎて、建物や外交の予算も取れない場合が多いですね。だからあまり安請け合いしないようにしています。後からオプションオプションで、どんどん予算が増えていくみたいなことは、人間関係も壊れていきますからダメですね。
最近多いローコスト住宅も、いくらでも出来るんですが、どこら辺までシンプルにしていきますかということです。要はその考え方が、どこまで耐え切れますかってことですよ。そういう柔軟な考え方でいけるのであれば、ご協力できますよということです。

それに対応できる工務店も大事です。技術力もそうですが、柔軟性のある工務店を抱えておかないと難しい。そんな工務店も少なくなりました。割と費用が掛かる雑工事なんかを、引っくるめてやってくれるような、社長の顔が見える会社さんを捕まえないと無理ですね。








ギャラリーも運営されていますね。


事務所のあるビルの1階で運営しています。若い見込みのあるアーティストが、社会と接する場所がないから、世の中と接する場を提供するという思いでやっています。普段は設営と清掃をやっています。まぁギャラリーのオヤジですよ。ははは。





最近は?


少し前に仕事をした奥多摩の上流の住宅ですけど、千葉にも別荘持っている方がたまたま「お宅、造園も一緒にやってくれるの?奥多摩に一山買ったから別荘つくってよ」と連絡が来ました。それで企画して模型を結構カッコ良く作ったんで気に入られて依頼されましたね。
その時のコンセプトが「フラメンコが踊れるリビング」。それで空と一緒に空気感が楽しめるようにしたいので、夜になっても月明かりが美しく入ってくるように開放感を持たせましたね。
庭からの眺望も、下の方に川が流れてるけど、草ぼうぼうの木が一杯で全然見えやしない。これは川が見えないとダメだなと思って、工務店のオヤジと腰縄つけて急崖の雑木を切り開きましたよ。切った木は4〜5年分の薪にしました。小さい谷をこえて対岸の山まで回遊できる遊歩道を、鉄骨にデッキ板を貼って作ったりもしました。






 

こっちは30坪もない家ですが、地下に車庫を作って、車庫の上を屋上庭園にしました。そうすればプライベート空間がしっかり取れる。こういった建物のように、都心の狭小地でも建物だけ作るのではなく、それを活かした庭を作るのが僕の特徴ですね。










 


勝田 無一
有限会社 創設計 代表
住所:〒150-0001
   東京都渋谷区神宮前4-25-3
TEL:03-3408-8419

詳しいプロフィール
【編集後記】

こんなに楽しくお話を聞けたのは久しぶりでした。裏話もたっぷりと聞かせて頂き、あっという間のインタビュー時間でした。日本の建築文化の変革期を目の当たりにしてこられた経験からくる説得力は、そうそう体験することはないのでしょうね。事務所の1階で運営されているギャラリーにも今度覗いて見ます!

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